旅に必要な「私の手荷物、私たちの荷物」


互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい・・・・・。

人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」
(ガラテヤ6:2、5)



空港のロビーや新幹線のホームは、旅に出る旅行客でにぎわっています。大きな
荷物を引いてる人に、軽そうなリュックを背負っている人。


行き先や目的によって、荷物も変わってきます。そして、そこにその人の性格も加
わり、内容量も多くなったり少なくなったりするのでしょう。


さて、この旅は人生であり、一人旅ではありません。荷物も各自が持たなければな
らない手荷物(自分自身の重荷)
一人では持つことのできない荷物(互いの重荷)
があります。


各自持たなければならない荷物は、他の人が持つことはできません。なぜなら、
その人に合った重さであり、その人に適したサイズの荷物だからです。他の人に
は重過ぎたり、身体のサイズに合わないので代わって持つことはできません。


それでも、その人の旅には必要な荷物です。目的地ではなくてはならない物なの
です。目的地でハッキリと知らされることでしょう。「ああ、このためだったんだ、
主よ、感謝します。
」と。


時には重く感じられて、休みながらでないと歩くことはできないかもしれません。
重い荷物を放り投げて、座り込んでしまうこともあるかもしれません。


旅の企画をたてられた主は、人の弱さもそれぞれの能力も全てご存知です。これ
以上無理をさせられないなと思われたら、「ちゃんと休めるように取り計らってくださ
るのです
。」(コリントⅠ・10:13)


一方、一人では持てない重い荷物もあります。でもこの荷物は、持つか持たないか
と自由に選択できるものではありません。これが無いと旅に出ることはできないの
です。だからパウロは、一人で持とうとするのではなく「互いの重荷を負い合え」と
教えます。


それでは「互いの重荷」とは何でしょうか。自分が負える手荷物とは違い、一人で
は持つことができない物とは。


それは、個性と言われるものだと、私は考えます。人は一人として同じではありま
せん。性別が違えば、年齢も違います。体格が違えば、体力も同じではありませ
ん。好きな物、嫌いな物も異なります。得意なこと、苦手なことだって同じではあり
ません。生まれた環境や価値観だってそれぞれです。


その備えられた一つひとつが結果となって、今の私たちがいるのです。これは神
がそう造られたのだと思います。


人は他人の中に「自分と違う何か」を見つけて不快感を表します。時には攻撃の
対象とし相手を傷つけてしまいます。自分を中心に全てをみて、「自分にとって」
という判断をしてしまうから、不快感を覚えたり、排除したいという思いが湧いて
くるのでしょう。


これが罪(神の基準から離れ自分を基準とした)というものであり、全ての争いの
根なのです。


・・・・・・≪次に続きます≫