主のためにできること


まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、
福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、
この人の記念となるでしょう。
」(マルコ:14:9)




世の中は、本当に緊迫してきました。


わが国をみてもすでに政治が体をなしてなく、末期の症状がいたるところに顕れ、
これから先の運命すら自分の責任において決断し、踏み出してゆかなければなら
ない時代にきたのかもしれません。


さて、この世から呼び出された者(エクレシア)である私たちは、まさにこの時代に
あって、今、何をしなければならないのでしょうか。


聖書には主イエス・キリストが再び来られることが書かれています。その前に、キリ
ストの身体である教会(クリスチャン)が天に引き上げられることも書いてあります。


もちろんそれは、いつ起こるかわかりません。しかし、時が近いことは判りますし、時
間があまり残されていないことも知ることができます。


ところで福音書にあるベタニヤのマリアの話は、高価なナルドの香油をイエスのため
に使い、そのことを立派な行為だとイエスに言われ、さらに「記念となる行為」だとも
言われました。


主イエス・キリストはすでに、十字架で私たちのために死なれました。私たちには主に
たとえどのような高価な香油も、今は注ぎかけることはできません。


この話から学ぶべきことは「私たちが生きている間に、主のために自分が考えられる
最高のことを行なう
」ということになるのではないでしょうか。


言い換えれば、「死んでしまったら、もう何もできない」ということになります。


「最高のこと」や「最高な時間」は人それぞれでしょう。でも、この世の価値基準で判断
したら無駄と思えること(時間を使う)を主(神の国)のために行なうことは、主が認めて
くださる「記念」となる
のです。



私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、
豊に蒔く者は、豊に刈り取ります。
」(Ⅱコリント9:6)