天の父に親孝行


わたしは青銅の代わりに金を運び入れ、鉄の代わりに銀、
木の代わりに青銅、石の代わりに鉄を運び入れ、平和を
あなたの管理者として、義をあなたの監督者とする。

(イザヤ60:17)



「親孝行したい時に親はなし」・・・・・。


人は過ぎ去った時を振り返るとき、そこに後悔という文字が浮かび上がる
のをみるのでは・・・。(私だけ?)


やっと父(母)の思いに、こころから寄り添えることができるような年に自分
がなったときには、もう父(母)の姿を見ることができません。


あのときに・・・・、しておけば・・・・。もう少し一緒に・・・・。


これは、神との関係においても当てはまることなのです。なぜなら、私たち
と天の父なる神とはイエスによって親子関係で結ばれているからです。


そうだとしたら、私たちは親(天の父)孝行できているのだろうか・・・。


やがてこの世を去る朝、ふと人生を振り返り、天の父へ親孝行してこなかった
ことを悔やむことはないだろうか。



ベタニヤのマリアは、イエスがこの地上でなされるみ業を知っており、もう
すぐ手の届かない天に上られる目の前にいるイエスに、彼女が考えられる
今しかできない最高のことをしました。


これを、神は望んでおられるのです。


さて、天の父なる神は触ることも見ることもできません。もちろんマリヤのよう
に直接にできることはありません。


少し視点を変えてみてください。


全知全能の神は死ぬことはありませんが、私たちは死にます。つまり、親孝行
をする相手が死ぬのではなく、親孝行をしたい側が死ぬことによって、できなく
なるということです。


親孝行という行為は、この地上で生きている間に成立するものです。肉体が滅
びてしまえば行なえなくなるのです。


エスを信じ神の愛を受け取ったキリスト者は、やがて天の御国へと凱旋する
ことになります。そこでは、地上でどれだけ天の父に親孝行(御心を行なったか)
してきたかで、御国での取り扱いが違うようです。


マリアの香油のように、この世の価値基準を通してみれば無駄(意味のない)な
行為に映るかもしれません。ある人にとっては、「パンを水に投げ入れるような行
」(伝道者11:1)にしか思われないかもしれません。


それでも、忘れた頃にパンは食べきれない程に増えてかえってきます。そして、
地上でそれぞれが持てる分を持ち寄ったとき(親孝行)に、銀や金に換えて天
の倉に納めていてくださるのです。


「親孝行したいと思う時には」・・・・。私たちの人生はいつまで続くか誰も判りま
せん。天の父だけがご存知です。


決して悔いることのないように、今できる最高の行為で親孝行ができたら幸い
です。



ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは、大きな報い
もたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手
に入れるために必要なものは忍耐です
。」(ヘブル11:35,36)