注意、わき見運転!!


確かに、私たちは見るところによってではなく、
信仰によって
歩んでいます
。」(Ⅱコリント5:7)




先日、車の運転中に「ヒヤッ」とするできごとがありました。


秋晴れの穏やかな空気が漂う車内、心も身体も爽やかで何ともいえない
平安に包まれているような気分・・・。


近所の陸橋を上り始めると、車窓のスクリーンには一面の青空。白い雲と
コントラストが、まるで天の国を想像させてくれているようでした。


「ああ、いつかはそこに行くのだろうな」と、脳内モルヒネ(?)の作用で
すべての雑踏が消えそうになったとき、目前に迫る車の後姿・・・。


陸橋を下りきった所に信号があり、停車中の車に衝突する手前で、なんとか
無事に急停車することができました。


危なく(?)、本当に天国に行くところでした。^^:


運転中のわき見は危険であることを、再確認させられました。運転中はまっす
ぐに前を見て(もちろん後ろや左右にも注意を払う必要はあります)、目的地
まで運転に集中しなければなりません。


信仰生活にも同じことが言えるでしょう。


キリスト者の標準(ウオッチマン・ニー著)」の中で、すべての誘惑は、原則的
に見て、自己の内を見ることにあります。すなわち主から目を離して、外側を気
にすること
だ、と言います。


「事実」「信仰」「経験」の三者が、城壁の上を歩いていた、というたとえ話が
あるそうです。


「事実」は城壁の上を、右も左も見ず、また後ろを振り返らず、まっすぐに歩い
て行きました。「信仰」はその後に従いましたが、彼が「事実」から目を離さな
いうちは、万事ことなく運びました。が一たん「経験」が気になるや否や、それ
がどのようになっているか確かめようと振り向きました。


すると「信仰」は、均整を失って城壁から落ちてしまいました。そして「経験」も
その後を追って落ちた、というのです。


これは興味深い話ではないでしょうか。


ウォッチマン・ニーは続いて、「信仰は絶えず山に直面している」と言います。
(内容は多少変えて書いています。)


その山は、サタンが仕掛けている山であり、神のみ言葉と矛盾する証拠の山であり、
この世の価値基準とは反するという敗北(経験)の山が立ち塞がるということです。


山か信仰かの、いずれかが去らなければなりません。両者が並び立つことはでき
ないのです。しかし、問題の多くは信仰が去ってしまい、山がとどまるところから生
じる、と指摘しています。


この世はサタンの働くフィールドであることは以前に書きました。私たちの経験や
感覚など(肉)はいつでも影響を受けていることも忘れてはいけません。ニーが言
うように自分の感覚に頼れば、サタンに簡単に操られてしまいます。


私たちはいつでも全能の神のみ言葉(聖書)を信頼し、み言葉に矛盾するものを受
け入れない、という態度を持ち続けることが重要です。


主であるキリスト・イエスのみを信頼する信仰に堅く立っていなければなりません。
世の見せる幻影は、より巧みになってきたように思えます。それらに気を取られる
のではなく、しっかりとキリストだけを見て歩んで行きたいものです。



信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。・・・
(ヘブル12:2)