神がいないと、まだ勘違いしているあなたへ


目に見えない神を、なぜ信じることができるのだろうか・・・。


まだ手にしていない約束を、なぜ期待できるのだろうか・・・。







ヒトは誰でも、いつかはキリストの十字架に直面することが定められている。


知っていようが、知らなかろうが、受け入れようが、否定しようが。


これはこの宇宙ができる以前から、創造主(神)が定めていたことだ。

「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです」「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人びとの救いのために来られるのです」 (ヘブル人の手紙9章26節〜28節)


それでは、この十字架に直面するときとはいつなのだろうか。


そのときの十字架は、「あなたを癒し、希望へと続くいのちの道」となるのだろうか。


それとも、「暗黒の絶望へと落ちて行く門」として立ち塞がる存在となるのだろうか。


だれでも、望む十字架はひとつであるはずだ。


「そんなことは信じられない。」「わたしは、別に何不自由なく暮らしているから・・・」と、まだ否定し続けるのだろうか・・・。


聖書はなんと言っているのだろう。

「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから」 (ルカの福音書6章20節)



「貧しい者」と言っていることに、注目する必要がある。


貧しいとは、生活やこころが貧しい、と言う意味ではない。


今の霊的状態を指す言葉だ。神から見たら、キリストを知らない人は全て貧しく憐れに写っていることだろう。しかし、その後に続く言葉はなんと言っているだろうか。


「幸いです」と言っている。なぜ・・・・?


それは、「自分自身では生きていけない」と分かったからだ。もし今あなたが、何不自由なくすべてに満たされ、生きている(そう思っているだけだが)」と勘違いして生きているなら、神を求めることはしないであろう。神の言葉さえ、むなしくあなたを通り過ぎていくことだろう。


ここに鍵があり、チャンスがある。


「自分の力では生きていくことができない」と、打ちのめされ、自分自身に絶望したときに、キリストを求め受け入れることができるのだ。


そのときに出会う十字架は、私たちを癒し、キリストのいのちの中に招き入れてくださる。


そして、「キリストがわたしたちの中で生きてくださる」ようになる。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」 (コリント人への手紙第二・5章17節)


この世が全てである、と思うところには必ず無理が生じます。


また、神がいないと思うところにも、人間の限界を感じるでしょう。


これは、「キリスト教」なんていう宗教の中の話ではないのです。


キリスト教会というところに行って、難しい説教を聴くことで得られるものではないのです。


一人ひとりの心に語ってくださっている、神の恵みなのです。


これが、私たちに与えられている「福音(ゴスペル)」、つまり良き知らせなのです。


どうぞ、聖書を通して語られる「いのちの希望」をこころをかたくしないで、受け取ってみませんか。