想定外の災害に備えはありますか?(その2)
どこかの知事が「これは天罰だ!津波で我欲を洗い流せ」などという無神経な言葉を、公共の場で口にしてしまいました。すぐに訂正したものの、本性を見た気がします。
わたしは神という存在を「ご利益」や「天罰」などという、人のご都合主義的なこころの拠り所としては書くつもりはありません。また、恐怖心をやたらとあおって先導する意図をもって書くのでもありません。
災害や人間の力ではどうすることもできない事態に遭遇すると、人は無神論と思われる方々でも「人知を超えた存在(神)」に向かい手を合わせます。
また、亡くなった方々の霊に黙祷を捧げます。これは人として自然な行為なのでしょう。
何に向かって手を合わせるのでしょうか・・・?
何を祈るのでしょうか・・・?
先祖にですか? 木の像にでしょうか?
はたして、それらは何かに応えてくれるのでしょうか・・・?
聖書には「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」(イザヤ45:22)と明確に書かれています。これは、主権者である神の宣言なのです。
パウロという宗教の指導者は今から1950年位前に、当時の文化の中心地であったアテネの人々にキリストを伝えています。ローマやアテネは、ある意味で現代の日本などの先進国と同じだったと思われます。文明も人のこころも飽和状態だったのかもしれません。
「何か良いことある・・・?」や「何か新しいこと知らない・・・?」という言葉が挨拶代わりだったようです。(使徒の働き17:21)また、それぞれが自分勝手な神を造り自己満足のための対象としていました。
パウロはそんな人々に向かって「宗教心に厚いのは結構ですが、あなたたちが知らずに拝んでいるものが何かを教えますよ」と言い、「真の神は、この世界を造られた方であり人や生物に息を与えられたのであって、人が造る建物に住んだり、まして人に支えられるようなことはない」(17:23〜5)と教えました。
唯一の神である天地を造られた創造主は、ひとりの人を初めに造りそれぞれの時代に人が住む場所や国境も決められました。「これは神を求めさせるためである」(17:26,27)と言うように、正確に人類や被造物をたどってゆけば主権者である神にたどり着くのです。
私たちは意識しようがしまいが「神の中に生き、動き、また存在しているのです。」(17:28)主権者の手の中に置かれていることで、ここでは人の知恵である「想定外」という言葉は成立しないことを知る必要があります。
人は身体とこころ(魂)、霊から成っています。神から霊的に離れてしまった人は、この霊の機能が原罪のために仮死状態です。このままの霊の状態では神の国に入ることはできません。
神との良好な関係を築くためには、仮死状態の霊を生かし、神と交われるように聖いものとされる必要があります。そのために、愛の神は「イエス・キリストを人類の身代わりにする」という驚きの方法をもって、救済の手を差し伸べてくださいました。
日本人は人が死んだら身体から霊が離れて、黄泉の国とこの世とを彷徨う、と考えています。そのために、死んだ人の霊が成仏するように、死んだ後も仏壇やお墓に手を合わせて祈るのでしょう。
先祖を思う気持ちは大切です。けれども、死んだ先祖が何かをしてくれるのでしょうか。また、死んだ人のために、何かをしてあげることができるのでしょうか。
パウロは真の神から離れてしまい、「神などいない」とうそぶく人々や「自分勝手に偶像を拝んでいる」人々に「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神はお立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。」(17:30,31)と自分勝手に生きる人々に警告しました。
「お立てになったひとりの人」とはイエス・キリストのことです。
2000年前にイエス・キリストは救い主としてこの世にこられ、すべての人類の贖いのために十字架で犠牲になりました。罪の贖いは完了したのです。
「救われる」とは、このイエスの贖いの業を「自分のものとする」ことです。
つまり、このことを「信じ受け入れる」ことなのです。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(テモテへの手紙第一・2:4)と聖書にはあります。<次に続きます>