悪魔の策略(その2)


パウロは私たちに与えられた「全能の神の力」によって、
強められなければならない
ことを教えます。


それは、この世の闇に働く「悪魔の策略に対して立ち向か
うことができるため
」だと言います。


キリストを通して神の子とされた私たちの権利を剥奪、ある
いは放棄させようと、策略をたてているので注意をしている
とともに、悪魔や悪霊と戦うことのできる神の武具を身にま
といなさい、と命令しています。


パウロの言葉には「好むと好まざる」とに係わらず、すべて
キリスト者に命じていることなのです。


悪魔の策略を決して侮ってはなりません。


どれだけ多くのキリスト者が、この悪魔の策略に踊らされて
いることか。


術中にはまって、抜け出すことができないでいることか・・・。


苦しむ必要のない偽りの困難や、また、思いにこころを捕らわ
れてしまっていることか。


きょうも耳元で、こうささやいています。


神などに頼るな。己を信じて歩め!」と。


この世から召し出され、永遠のいのちに続く道を歩んでいる私
たちに対する霊的な攻撃は、日増しに強くなっているようです。


そんな私たちに悪魔(サタン)や悪霊たちは、パウロの言葉に
ベールを掛け気付かれないように画策し、さらには、言葉を無
効なものとしようと、日夜働きかけています。


あるときは家族を通して、争いの種をまきます。友人のこころ
にも、憎しみの火種をつけることに成功します。


これは、ハッキリと「人との争いではなく、悪魔や天にいる悪の
軍団との戦い
」(6:12)であることを認識することです。



兄弟姉妹よ。


さあ、今、「神の全ての武具をとりなさい!」(エペソ6:13〜18)


そして、「信仰の大盾を取れ」(6:16)とあります。信仰とは神を
信じ、従うことでもあります。


牧者(キリスト)に従わずに群れから離れた羊(キリスト者)は、
狼(悪魔)のかっこうの餌食になるのです。ですからヤコブも「
に従え。そして、戦え
」(ヤコブ4:7)と教えるのです。


エスがキリスト(神の御子であり救い主)であると信じている
者はだれでも、神によって生まれたのです。・・・・私たちの信仰、
これこそ、世に打ち勝った勝利です。
」(ヨハネⅠ・5:1〜5)


信仰を持った時点で、すでに、この世では勝利者とされました。


さらに、「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを
踏み砕いてくださいます
。」(ローマ16:20)と約束されているの
です。アーメン!

悪魔の策略


終わりに言います。主にあって、その大能の力に
よって強められなさい。


悪魔の策略に対して、立ち向かうことができために、
神のすべての武具を身に着けなさい。


私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、
この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろ
もろの悪霊にたいするものです。」
(エペソ6:11,12)



パウロは生きたまま、第3の天に引き上げられ、神の子
とされた者の相続した宝がどれほど素晴らしいか、その
全ての全貌を見たのでしょう(コリントⅡ・12章)。


そして、天の父なる神は御子なるイエス・キリストを通し
てこの世から召しだされた者(教会)と一つにされるご計
画を「世界を創造される前」(エペソ1:4)からたてておら
れことも知らされたのです。


このイエス・キリストが来られるまで隠されていた奥義を
パウロは知ったのです。


それゆえパウロは、キリスト者とされながらも自分が見え
ていない私たちに、「自分がどれほどに素晴らしい存在と
されたのかを知りなさい!」と声を大にして叫ぶのです。


・・・・・ところが、キリスト・イエス使徒であるパウロ
言葉に「偽りのベール」を掛けてしまう存在があるのです。


それゆえ、最後にパウロは結論として「主にあって、その
大能の力によって強められなさい
。」と言い、その必要性
を続いて教えています。


《次に続きます》

喜びに変えられる


あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。あなたは、
私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを
知っておられました。
」(詩篇31:7)




主よ。きょうもこのダビデの祈りにこころを合わせます。


たとえ、幾万の敵に囲まれようとも恐れません。


たとえ、悩み苦しみが襲うときにも、


私は楽しみます。


私は、あなたの恵みを喜びます。


こころの奥底の悩み苦しみは、誰にも判ってもらえない
でしょう。


ところが、「たましいを御手にゆだねた私」(31:5)の、
どんな悩みでも、さらに見えない傷までも、主が知ってい
てくださるとは。


そうであるならば、何を恐れようか。


何を悩み苦しもうか。




主に全てを委ねるとき、喜びに変えられるとは。

主よ、助けてください!!(その2)


「よくなりたいか」というイエスの問いかけに、彼は何と答えたの
でしょうか。


「水がかき回されるとき・・・・、誰も入れてくれない。誰かが先に
入ってしまうから、私は入れない・・・。」と、自分に起こっている
ことを説明し「自分が治されなければならない状態」であることを
忘れてしまっているかのようです。


エスは、この男の言い訳が耳に入らなかったかのように、ただ
ひと言「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と言われました。


38年という長い間に、病気から開放されたいという望みも薄らい
でしまったのかもしれません。「池に入れば治る」という強い気持
ちから、「誰かがそのうちに入れてくれるかもしれない」、という
かすかな希望を糧に、その日をやり過ごしていたのかもしれません。


「床を取り上げて」とは、「ぬくぬく温かな布団から出よ!!」という
ことです。


寒い冬の朝、温かな布団から抜け出すには気力がいります。「ああ、
できることなら、このまま寝ていたい」と思うことがあります。


寒い外に出るよりは、ぬくぬくとした気持ちの良い布団の中にいた
いのです。


でも、勇気を出してそこから出なければなりません。その場所は、
私たちの居場所ではありません。


余りにも長い間そこにいたので、自分はそこから抜け出さなければ
ならない存在であることを忘れてしまいました。


エスが言われた「よくなりたいか」という当たり前にも聞こえる
言葉は、憐れみとともに、「罪のままでは死ぬしかないのだよ。治
(赦され)されなければならないほどひどい状態なのだよ
。」と、
悲痛な叫びであったのかもしれません。


聖書には天地を創られ、私たち人間も創られた唯一の神がいて、
そのお方の前では誰でも罪人だといいます。(罪とは神を認めず
に、神から離れて自分勝手に生きていること)


罪人のままでは肉体の死後(霊は永遠に生き続ける)に、永遠の
滅びがあるというのです。


知らずに滅びへと向かっている多くの人々へ、「あなたたちは、
救われなければならないんだよ!!」「そのことを気付いて!!」
と、イエスは涙を流し大声で叫んでおられるのです。


エスは「すべての人を照らすそのまことの光」(ヨハネ1:9)と
して、人々の罪(病気)を示し、そして、「世の罪を取り除くため
(1:29)に来られました。


誰からも賞賛されることもなく、誰にも苦悩をこぼすこともなく、全
人類救済という「十字架での贖い」を成し遂げられました。


そのお方が、きょうも、招いておられるのです。


よくなりたいか」と。


どうぞ、心の目が開かれて、「主よ、よくなりたいです。」「救ってくだ
さい。
」と、素直になって応答できれば幸いです。

主よ、助けてください!!

エスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを
知って、彼に言われた。『よくなりたいか。


病人は答えた。『主よ。私には水がかき回されたとき、池の中に私を
入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降り
て行くのです。』


エスは彼に言われた。『起きて、床を取り上げて歩きなさい。』


すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩きだした。」
ヨハネ5:6〜9)




歳を重ねると言うことは、年々身体にもボロがでてくるということで
もありますね・・・・・。


初めて近くの大学病院なるところに行きました。総合案内で受付を
して、離れた病棟の目指す診療室へ。今度は支払いの窓口に行き、
そこで自動支払機専用の入金用紙を受け取って支払いをします。


さすが大学病院となると、1日に大勢の患者を診なければならない
のでシステム化されていて、患者(人間)はまるでベルトコンベア
に乗った品物のようです。


どこからこれだけの病人(自分もそうですが)が集ってくるのだろう
か。これが毎日この病院で繰り広げられる風景なのだろうな、と改
めて人の弱さを考えさせられました。


ところで、診療や治療を待っている患者に、「あなたは、よくなりたい
のですか?」と尋ねたらどういう反応が返ってくるのでしょうか。


失礼な話かもしれませんが、実はこれが大切な気付きなのです。


ヨハネの5章で、イエスエルサレムで行なわれるユダヤ人の祭り
に来ていました。羊の門の近くにべテスダ(慈しみの池)と呼ばれ
る池があり、5つの回廊がありました。


この回廊では、多くの病人が「あるできごとのため」に待っていたの
です。


この池には言い伝えがあり、「池の水が動く時に最初に池に入った
人の病が治る」と信じられていたようです。


エスが回廊を廻ったとき、横たわっている一人の男に目を留めまし
た。その人は、なんと38年もの間、その回廊で池に入り癒される
ことを待っていたのです。


そんな、診療を待っている重篤患者のような彼に向かって、イエス
「よくなりたいか。」という言葉をあえて投げかけたのでした。


さて、この男の反応はどうだったのでしょうか。


わたしたちの反応は、どうでしょうか・・・。


《次回に続く》

主の約束が見えてますか?


太陽がもうあなたの昼の光とはならず、
月の輝きもあなたを照らさず、
主があなたの永遠の光となり、
あなたの神があなたの光栄となる。


あなたの太陽はもう沈まず、
あなたの月はかげることがない。
主があなたの永遠の光となり、
あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである
。」
(イザヤ60:19,20)




神が与えてくださり、委ねられたこの麗しき楽園を、欺く者の手に
渡してしまった人間は、嘆きや悲しみ、また罪の支配する不完全
なものに変えられた世を生きて行かなければならなくなりました。


人の心からは「愛」は見えてきません。人の命は、いつから、こんな
にも軽くなってしまったのでしょうか。


精神科医や心理学者も分析することができないこころの闇。


これは、不完全となったこの時代(「アイオ−ン」:サタンが支配を許
されている期間)を神から離されて生きている人の姿なのです。


そんな悲しみの朝でも、キリストにつながっている私たちには、今朝
も「主の変わらない約束」がこころを満たし、恐れや嘆き悲しみを平安
に変えてくださいます。


だから、神の国の共同相続者とされた私たちにできることは、「主に
感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで
。」
と賛美するのです。(歴代Ⅰ・16:34)



見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、
彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死も
なく、悲しみ、叫び、苦しみもない
。なぜなら、以前のものが、
もはや過ぎ去ったからである
。」(黙示21:3,4)

天の父の悲しみと深い愛


まことに、彼は私たちの病を負い、


私たちの痛みをになった。


だが、私たちは思った。


彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。


しかし、彼は、


私たちのそむきの罪のために刺し通され、


私たちの咎のために砕かれた。


彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、


彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。


私たちはみな、羊のようにさまよい、


おのおの、自分かってな道に向かって行った。


しかし、主は、私たちすべての咎を


彼に負わせた。


・・・・・しかし、彼を砕いて、痛めることは、


主のみこころであった。


・・・・・主のみこころは彼によって成し遂げられる


彼は、自分のいのちの


激しい苦しみのあとを見て、満足する。」
(イザヤ53:4〜6、10,11)




父よ。彼らをお赦しください。


彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
(ルカ23:34)




「父の涙」作詞・作曲:岩淵まこと