キーワードは主に在りて!!
「在主」とは、手紙の結語ではありません。まして、キリストを信じる者の合言葉でもありません。
「主に在りて」。つまり、「キリストにあって」なのです。
エペソ人への手紙は3章までに「キリストにあって・・・」というメッセージが22回も出きます。パウロは、ことさら強調して伝えようとしているのです。なぜでしょうか・・・。
罪が赦されたのは、「キリストによって」でした。アダムから始まった人間の罪は、例外なく私たちを罪に定めます。(前回で説明しました)
こうしてアダムから始まった罪(原罪)により、神との霊的関係が機能しなくなり(本来は霊が主体で生きていた)、自分の魂に頼って生きています。
人類の祖先をサタンはまんまと自分のフィールド(善悪の知識の木)に誘い込み、人間の知性の中に悪の王国を築き上げました。これが、肉にある私たちの現在の姿です。
しかしこれは神の許されたことなのです・・・。最初の人アダムの罪の性質を受け継ぎ「死に向かって歩いていた」私たちを、最後のアダムであるイエス・キリストお一人を罪として処罰することによって、「キリストの命」へと移してくださいました。(コリントⅡ5:21)これが神の御業です。そして神の壮大なご計画でもありました。(エペソ1:4)
改めて確認します。私たちの努力や何かの行いで義とされたのでしょうか・・・。また、私たちの好きな聖句である「あなたは高価で尊い・・・」だけを取り上げて満足し、十字架と血をないがしろにしてしまうクリスチャンもいるようです。
もちろん、神から見て「高価で尊い」ことは間違いないでしょう。ただし、その前に「主(キリスト)にありて」がくるのです。神はキリストの血をご覧になっているのです。(ヘブル9:13、コロサイ1:20、ペテロⅠ1:18、19)言葉を変えれば、過ぎ越しの祭りのように塗られた血(キリストを信じることによって)をご覧になり、義と認めてくださいます。けっして、私たちをご覧になってはいないことが分かります。
だから、「キリストによって、キリストにあって」なのです。それ以外は、私たちにはありません。
それでは、「キリストに在る(入る)」ために装って敬虔(?)であったり、いつも良いことを行なうのがクリスチャンだから・・・と、無理をしていることが「キリストに在る」ことにつながるのでしょうか。
聖書は何と言っているでしょう。「あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。」(コリントⅠⅠ:30)そうです、もう既にキリストの内に入っているのです。なんと、すばらしいことではありませんか。
「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたもの者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリントⅡ5:17)そしてキリストを信じ受け入れた私たちは、「もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きる」のです。(5:15)
この事実を信じ(ギリシャ語の原典では「信頼する」という意味があるようです。事実だから、そのことを信頼する)、自分の中で咀嚼して、実生活において実証化させていくのが信仰ではないでしょうか。
そして、その神の御業が理解できれば、自ずと「良い行い」をするようになるのです。なぜなら「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」 (エペソ2:10)