必要なのは忍耐
「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。
それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に
入れるために必要なものは忍耐です。」
(ヘブル10:35,36)
私たちの生活は便利になりました・・・・・。と、同時に失った
ものも大きいことも確かです。
電子機器はより速く、そしていつでもどこででも欲しい情報を
手に入れることができます。
身の回りの道具は、少しでも人の手から煩わしさや手間を省く
ためにより進化してきました。
サービス関連の商売は客を殿様お姫様にまで押し上げ「感違
い」という虚像を創り上げてしまいました。
こうして、「待つ(時間をかける)」ことができなくなった現代人
は、自我が満たされないとすぐに切れ、相手を思いやるこころ
が、みごとに奪われたのです。
これは信仰にも深く影響を及ぼしているので注意が必要です。
祈りがすぐに応えられなかったり、試練が起こるたびに、主の
御前を離れて、世の中にひと時の慰めを求めて飛び出して行く
という不信仰を働かせてしまう・・・。
そして、信仰がますます後退するという悪循環におちいってしま
うのです。
たとえ祈りがすぐに応えられなくても、試練の波が襲ってきて
も、今はそれが最善なのだから。
これが私に与えられた「小道」(詩篇25:4)なのだから。
ああ、主イエスが持っていた忍耐や柔和なこころ、謙虚さのすべ
てを得ることができるように祈るばかりです。
「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。
私の望みは神からくるからだ。」(詩篇62:5)
主よ、感謝します!!(その3)
「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、
わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼の
ところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしと
ともに食事をする。」(黙示3:20)
「どこに行けば・・・・?」
「なに、○○さん」
「どこに行けば・・・、
イエス様と会えるのですか?」
一瞬、このことばが信じられませんでした。
今まで、何度も何度も語った福音でしたが、そのたび
に反論(切り替えしトーク)や話を切り替え戦術にあい、
一方的に決まり文句のようにことばを発しているだけ
で、空しさすら感じていました。
ところが、目の前のさらに小さくなったお年よりの頑な
だったこころは溶かされて、素直に求める気持ちが与
えられたのです。
「○○さんね、天地万物をお創りになった唯一の神様は、
人間の勝手な欲望で作り出した神々(偶像)とは違い、
どこかに行かなければ会えないなんて、そんな不自由
なお方ではないんだよ。」
「今この場所にもおられて、○○さんが気付いてくれる
ことを望んでおられるんだ。」
「この神様に、○○さんのこと祈ってもいい?」と尋ねる
と・・・。
「はい。お願いします。」
「わたしが先に祈るから、続いてわたしと同じように祈っ
てくれますか」と、自分のことばで祈るように促がすと、
またしても、「・・・・はい。」
ここまでくると、花粉も手伝って涙はこらえたものの、鼻
水があふれだしました。
鼻水をズルズルしながら「イエス様を信じて受け入れること
を望んでいる」ことを一緒に祈ることができたのです。
祈り終えると、じいさんの殺風景な小部屋に、まるで「主の
臨在」が現されたように、大きな平安に包まれました。
じいさんの背中を何度もさすりながら、「良かった。本当に
良かった。」と喜びを現すと、
明るくなったじいさんの顔にも、笑みがこぼれていました。
ああ、主よ感謝します。
いつもより長い時間の滞在となったので、また来ることを伝
えて席を立ったわたしに、小さな声で何かを言いましたが、
わからなかったので聞き直すと・・・。
「ずっと、いて欲しい・・・。」
・・・・・・・・・。
天の父なる神様、あれだけ頑なだった○○さんの心を溶かしてく
ださり、心の目を開いてくださいましたことを感謝します。どう
ぞこのお年寄りを顧みてください。イエス様をハッキリと信じ受
け入れることができますように。そして、これからの人生を希望
を持って歩んでゆくことができますように導いてください。
尊い主イエス・キリストのお名前を通してお祈りします。
主よ、感謝します!!(その2)
「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、
キリストについてのみことばによるのです。」
(ローマ10:17)
「今度はお金ときたかー」と、いかにもじいさんらしい直接的
な要求に、ひと呼吸おいてから・・・・。
「そうだねー、お金は必要だからねー・・・。」
「でもね、今○○さんにとって一番大切なものは何だろうね。」
と、一緒に考えました。(今までは、ここまで思考を進ませるこ
とはありませんでした。)
一人でいる孤独感とそれにともなう不安、何より身体の機能が
少しずつ衰えてゆく恐怖を覚えていることが、ポツポツ話す内
容から明らかにされてゆきました。
「○○さんね、聖書には『たとえ全世界の富を手に入れても、い
のちを損じたら、何の得があるか』(マルコ8:36)と教えてい
るんだ。」
「でも、悲しいことに、世の人々はいのちよりも全世界を手に入れ
ようとしているだよ・・・。」
「・・・・・。」
いつものじいさんとは明らかに違い、話を切り替えることもなく、
ただ黙って聴いているのです。
お金より大切なものがあること、そして、イエス様の所に行けば
それを与えてくださることを話しました。
あれほど頑なだったじいさんが、素直(?)になって、福音を聴い
ていることに驚くと同時に、主に感謝しました。
黙ってうつむいて聴いていたじいさんが、
何かをねだる幼子のように、
ポツリとひと言。
「どこに行けばいいんですか?」・・・・・。
《次に続きます》
主よ、感謝します!!
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、
わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
(マタイ11:28)
午後の時間が空いたので、教会で作ったトラクトを配ることに。
近くの空き地に駐車して、「トラクトを用いてくださるように、
そして、一人で良いので求めている人に会わせて下さい。」と
祈りました。
玄関先に出ている方と挨拶程度の話はできたものの、福音を伝
えるまでには至りませんでした。
ふと、じいさんの顔が見たくなり施設に寄ってみました。
最近は昼間でも寝ていることが多くなり、その日も寝ているとこ
ろをヘルパーさんに起こされて、
いつものように「あっ、どうも・・・。」
身体と共に思考能力も少しずつ衰え、そのもどかしさにいらだち
を覚えているようです。
先日、じいさん宅前の畑(らしき場所)にジャガイモを植えたので
その報告と一緒に畑を耕してくれた姉妹の話などをしていました。
話が途切れ、少しの沈黙が続いた後にじいさんは、お金のことを
心配していると、ポツリ・・・。(十分ではありませんが、じいさん
の蓄えで賄える)
そして、死んだあとに子どもに迷惑がかかることも心配している様
子。(子どもは二人いるのですが・・・)
じいさんの痛みや苦しみに寄り添いながら、最後まで話を聴き、そ
して、「○○さんのことを一番知っていて、全ての苦しみも一緒に
今、味わっている方がいるんだよ。」「そのお方のところに行って、
重荷を下ろして休もうよ。○○さん。」
「聖書には『すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのとこ
ろに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう。』と書いて
あるように、今の○○さんの心配ごとや不安を取り除くことができる
のはイエス様しかいないんだよ。」と言うと・・・・。
「イエス様は、お金を払ってくれるんかい?」・・・???
「まさか、お金のことまで心配してはくれめーぇーな!?」
なんだか、いつもと少し反応が違うようです。いつもの達人じいさん
の切り替えしトークではない様子。
その横顔からは不敵な笑みもなく、真剣さが伝わってくるのです。
《次に続きます》
傲慢という罪
「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、
互いに人を自分よりもすぐれたものと思いなさい。」
(ピリピ2:3)
私たちは、自分の内に存在する罪を見せられるときが
あります。
ある兄弟が自分の二人の娘さんのことを話してくださ
いました。幼稚園の妹と今年小学校に上がる姉との可
愛い盛りですが、二人で仲良く遊んでいたと思ったら
最後は必ずけんかになるそうです。
○○ちゃんが悪い。○○ちゃんは自分ばっかり・・・・。
ここにもハッキリと聖書が教える「自己中心」という罪
を知ることができます。
政治家が出演する討論会を観たことがあります。討論が
白熱してくると、怒り出す議員がほとんどでした。
この人たちの心の中には「自分は正しい」、さらに「自分
は、この人たちより優れている」という見下す態度がある
ことも知らなければなりません。
神が嫌われるのは、人の内にある傲慢という罪の根です。
なぜなら、サタンの性質だからです。
残念ながら、この肉の働きは教会内でも起こるから注意
が必要です。
だからパウロは罪に陥らないように対処法として「へりく
だって、互いに自分よりすぐれた者と思いなさい。」と教え
るのです。
正しいと思うが故に、また、自分の方が勝っていると思う心
が人を卑しめ、さらに罪へと誘い込みます。
自分より勝っていると認めた人の言うことには耳を貸すで
しょう。あるいは、この人の方が知恵があると尊敬する人
のことには従うでしょう。
教会内では、このへりくだる態度(イエスが一番へりくだっ
たことを忘れてはなりません)は必要です。
なぜなら、主が求めておられるのは「公義を行い、誠実を
愛しへりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。」
(ミカ6:8)
主は「高ぶるものに敵対し、へりくだる者に恵みを与える」
(Ⅰペテロ・5:6)とペテロは言います。謙遜を身に着けて、
へりくだる者にしか恵みを与えることができないのです。
「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を
聖ととなえられる方が、こう仰せられる。
『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだ
った人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕か
れた人の心を生かすためである。』」(イザヤ57:15)
あけぼのの光
「義人の道は、あけぼのの光のようだ。
いよいよ光を増して真昼となる。」
(箴言4:18)
新緑や野の草花の可憐なシルエットも闇に覆い隠されている
早朝。山の稜線をうっすらと照らしながら背景の闇を少しづ
つ薄めるように朝陽の朱色がにじみ出てくるような光景に、
きょうも一日が与えられていることに、私たちは感謝するこ
としかできません。
人はどのような歩みをしていようが、頭上には同じように太陽
が照り、創造主の恵みの中で養われているかのようです。
あるときには他人(この世の人々)と比べて、その栄華を羨む
こともあります。
また、あるときには地に倒されて、ドロだらけの顔で涙すること
もあるでしょう。
それでも、きょうの約束を自分のもとに引き寄せよう。
あなたは、あけぼのを見たことがあるだろうか?
漆黒の闇でさえ、かすかな光源を閉じ込めておくことはできない。
全てが凍る冬でさえ、花の香りが漂う穏やかな春へと移り変わって
行く。
あけぼのは、やがて直視できないような陽射しに変わり、暗やみは
霧のように消し去られます。すべてが輝く昼間へと移されるのです。
私たちが、あけぼのの光だとは・・・。
さあ、主を待ち望もう!!
「イエスはまた彼らに語って言われた。『わたしは、世の光です。
わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの
光を持つのです。』」(ヨハネ8:12)