いじめにみる、人の罪と悔い改め

神である主は仰せられた。『見よ。人はわれわれのひとりのようになり、
善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木から取って
食べ、永遠に生きないように。
』」(創世記3:22)



1.罪の本質


滋賀県大津市の中学校でおこったいじめによる自殺事件がニュースに
なっています。この事件は、まだ中学生という子供が自殺に追いやられ
たことと、今回の事件で誰も責任を取らない、という異常な社会にこの世
の行き詰まりを見せられたような気がします。。


いじめは、今はじまったことではありません。大人の社会にもあります。
職場においては、様々な名前のいじめが存在します。


・・・・・さて、「いじめ」はなくなるでしょうか?


答えは、残念ながら「NO]です。


何故なら、人はみんな違うからです。


「そりゃー、そうだ。そんなこと知ってるよ。」という反応が返ってきそうで
すが、知っていることと、理解していることとは違います。


男と女、生まれ育った環境が違えば価値観も違う。身体能力も同じでは
ありません。好きな物(ことも)・嫌いな物も、得意なことも苦手なことも
それぞれです。


そんなバラバラな個性が1ヵ所に集り、同じ方向を向き、同じペースで同
じことをさせられる。ストレスがたまれば、争いもおこるはずです。


そのストレスを「いじめという欲望」に変えて発散しているのでしょう。


人の中には「自分を基準とする」自我があるからです。つまり原因は、
いつでも「自分にとって・・・」なのです。


家庭の中でもあるのでは・・・。また、たまたま自分が準備に手間取り家を
出るのが遅くなって車を運転していると、前の車が制限速度で走っている
のにクラクションを鳴らして、前の車をあおるようなことはありませんか。前
の運転手さんには、急いでいることなど関係のないことです。


相手の状況や気持ちなどお構いなし。


いつでも、「自分が・・・」「自分にとって・・・」が根にあるのです。


これを聖書では「罪(原罪)」と呼びます。


ギリシャ語が言う罪は、「的を外す」という意味です。


どうして人の中にこの罪があるのでしょう。人類の初めの人までさかのぼる
必要があります。


聖書の始めの書は、創世記です。ここには、この世界を創られた神(創造主)
がおられ、時間も動植物もそして、人間を創られたことが書かれています。
これを創造論(偶然に進化したのではなく、神が創造したから)と言います。


この時の人(アダムとエバ)は神と良好な関係にありました。しかし、もう一つ
の天的な存在であるサタンが人を惑わし、「知識の木という禁断の実」を食べ
自分の運命の道へと誘い込んでしまいました。(創世記3:1〜7)


人はわれわれのひとりのようになり、」(創世記3:22)はじめの人アダムは、
三位一体(天の父なる神、子なる神、聖霊なる神)の神のようにふるまうように
なり、神の基準から離れて自分の基準で生きるようになったのです。


これが罪の本質です。


こうして、始めの人の罪によりすべての人が罪人」(ローマ5:12)と聖書は言
い、全人類に有罪判決を下されたのです。<次に続きます>