日本人がイエス(神)を信じられない理由


十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。』知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることができないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(コリントⅠ・18〜25)


イエス・キリストが、私たちの罪の贖いのために十字架で身代わりとなって死なれた」という福音は、信じ受け取る者には神の力となって現実のものとなりますが、拒絶する者には愚かな虚しい話にしか聞こえません。人の努力や知恵をいくら用いても救われることがないのは、神の知恵なのです。ただ、キリストの十字架だけが唯一の救いの道として定められたからです。


半世紀あまり日本で宣教の働きをされた方の著書に、日本でキリスト教が広がらない理由を3つにまとめておられましたので要約(管理人の解釈も加えました)して紹介します。


1.自尊心、自己満足という態度
福音の真髄は神の偉大な贈り物を受け取るという謙虚さが必要となります。プライドは誰でもあるでしょう。しかし、神の前で高慢な態度は、何の役にも立ちません。それどころか、それが大きな壁となって塞いでしまいます。素直になって自分自身を見つめ、ゆだねるという謙虚な態度が必要です。


2.すべてにおいて知識や努力が必要という考え
キリスト教に入るには多くの学びが必要であり、もし入ることができたとしても学びというドアーしかないと考えていることです。日本人は誇り高いが故に、努力もしないであわれみの中で与えてくださるお方、神に頼ることに困難を覚えるのです。


3.日本を覆う悪霊(サタン)の力
サタンの力が日本の文化、社会の中で働いていることは否定できないです。キリスト教の敷居をまたぐ時に、日本人はよく恐れのようなものに襲われるといいます。それはまさにサタンが人の心に染み込ませた恐れの霊なのではないでしょうか。(ある人は、お稲荷さんのそばに来ると「恐れ」を感じるそうです。それに似ているようです。)日本の過去の歴史は偶像礼拝の歴史であり、偶像礼拝を中心とした考え方が、日本人を支配しています。


さらに加えるとしたら、「自分たちに関係ない外国の宗教」という考えもあるようです。特にキリスト教国とされるアメリカでは戦争が絶えません。前大統領のブッシュは、クリスチャンとしても知られていました。その彼が戦争を指示している、ということでキリスト教を敬遠する方も少なくはないようです。彼はキリスト教という宗教を信じていたのもしれませんが、聖書の神は信じていません。なぜなら、アメリカが行なっているような戦争を神は禁じているからです。


このようなアメリカの蛮行は、神の名を汚しているといえるでしょう。「だから、一神教は・・・」という言葉も聞こえるように、日本人の根底には「八百万(やおおろず)の神という逃げ道」が用意されていて、曖昧ながらもそこに救いを求めているようです。


また、日本人には農耕民族特有の無意識に思考を回避させる防御装置(?)が働くようです。争いごとが嫌いな日本人は、最後は「まあ、まあ」という独特の曖昧(和のこころ?)さで、最後の結論を出すことをしないことがあります。これが神であったり、死後というような現実的でないものは概念として捉えて、意識をそらしてしまうのではないでしょうか。つまり、思考をストップさせてしまうようです。それゆえに、真理までいきつかない、ということが起こるようです。


自分や人に頼ることをやめて、万物の主であるイエスにすがる時、人はこの世では得られない平安と決して渇くことのない水が与えられるのです。この主なるイエスと出会える方は幸いです。